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その3機の戦闘機が飛来してきたのは、4月の早い頃だった。九州の南に位置するここでも、いまだほのかな肌寒さを感じるころだ。
その3機の戦闘機はどれもさほど大きなものではない。戦闘機というとB29が有名だけれど、あれは大型爆撃機で、そもそもこんな地上付近まで降下してこないのだ。つまりこの戦闘機は爆撃を目的としたものではない。
私は迎撃すべく、高射砲の後ろに身を構えた。射撃の腕には自信があった。陸軍学校での射撃大会では2位をとったこともある。
しかし、動くものを打ち落とすのはかなり難易度が高い。飛び出た弾が高速で移動する間に、射撃目標も移動している。さらに風の影響も受ける。
まず頭の中で数える。1秒、2秒、3秒。その間の戦闘機の移動距離を目算し、高度と現在位置の見当をつける。東からの海風、やや強い。
戦闘機が描く軌跡と、発射した砲弾が描く軌跡。そしてそれらが重なり合う様子をリアルにイメージする。焦げ臭い火薬の匂い。凄まじい炸裂音。
全てのイメージがそろったところで、狙いを定める。戦闘機に乗っている兵士の顔まで見える距離だ。高射砲に砲弾を送り込む。それとほぼ同時に、高射砲から砲弾が発射される。
焦げ臭い火薬の匂い、しかし炸裂音は聞こえない。
戦闘機がこちらに迫ってくるのが見える。戦闘機に乗っている兵士の顔が鮮明になる。タン、タン、タンという短い音がした。私はその場に倒れこむ。
しばらくタン、タン、タンという短い音が断続的に続く。右脚が熱い。右脚の太腿に弾を受けていた。太腿の正面からお尻のほうに弾が突き抜けたようだ。
その短い音が止むと、静けさがあたりを覆った。私は小銃を杖がわりにして、左足で立ち上がった。音を失ったいくつかの高射砲と、数人が倒れている様子が見える。
結局、2個隊が壊滅した。50人のうち、生き残ったのは私ともう1人だけだった。
私と彼の2人で48人分の遺体を燃やし、燃え残った骨をひとり分ずつ壷に入れていく。48人分を2人でこなすのは結構な重労働だ。しかも私の右脚は動かない。
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5月も終わりに近づき、夏が来ようとしていた。太陽が本気を出してくる。嫌な季節だ。
私は白い骨壷を持って、柳川に向かっていた。歩きながら、息子の死をどのように伝えるべきか考えていた。
だが玄関に出てきた母らしき人物は、骨壷を見て全てを悟ったようだった。骨だけでも帰ってきて、嬉しい。ありがとう。彼女はそう言って泣いた。しかし嬉し涙ではなかった。
私はその後、回天特別攻撃隊に志願し、配属された。簡単にいうと魚雷に乗り込んで敵艦にそのまま突っ込むことが任務である。人間魚雷と呼ばれることもある。
毎日暗く狭い操縦室に乗り込んで、操縦の練習をした。数十キロ先にある目標地点まで回天を操縦し、戻ってくるという練習を繰り返し繰り返しおこなう。目標は敵艦の撃沈であるが、孤独との戦いであった。
連日仲間が出撃し、帰ってくることはなかった。私の出撃予定は、8月17日に決まった。そして、私が出撃する前に戦争は終わり、私は再び生き残った。
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彼らの死の意味は何だったのだろう。何が彼らを死に追いやったのか。彼の死は果たして必要だったのか。
彼らは靖国神社に英霊として祭られている。そして彼らの死を必要とした当時の日本の国家指導者たちも、「同じところ」に祭られている。
私は毎年、柳川に墓参りにいく。しかし靖国神社には参拝したことはないし、これからも参拝することはないだろう。「同じところ」にいる「彼ら」を拝むことは到底できないのだ。
なぜ死ななければなかったのか。何が死に追いやったのか。
あの戦争の意味を、まだ若い君にも考えて欲しい。生き残った私の責務は、あの戦争を伝えることにあると思っている。
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ぼくが8月に実家に帰ったときに、80歳になる大叔父から聞いた話しを元に書いてみました。